メッセージ

 

―死を克服する―

20141116日の説教から>

 

 1116日は「召天者を覚えての記念礼拝」だった。この日は、亡くなった教会員あるいは家族の方々を神さまの前に覚えて礼拝を捧げる。60年の教会の歩みには多くの召天者がつらなっている。

 愛する者の死によって、わたしたち残された者には何が与えられるだろうか。悲しみ・喪失感・惜別の情・あるいは悔恨の情という語を思いつく。

 聖書は、ある若者の葬儀を取り上げてその意味を啓示する。

 

 ルカによる福音書71117

〈それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。〉

 

この母親はすでに夫を亡くしていたが、生きる支えである一人息子に、今また先立たれた。ここには、死別という悲しみだけでなく、これからの生活の苦しさや生計を立てる困難さなどが隠されている。

 この葬儀の場にイエス・キリストが弟子たちとともに差しかかった。

 イエスが葬儀の場で見た母の嘆きがどのようなものであったか想像に難くない。イエスは母親が何も言わないうちにその悲しみを共にされ、この奇跡を行なわれた。

 このような、深い悲しみに沈む人に「もう泣かなくともよい」と言える人を、私たちは知り得ない。誰がこう言えるだろうか。普通なら、「泣くだけ泣け、泣きつくせ」と言うのではなかろうか。また、深い悲しみに沈むとき人は「この悲しみは誰にも分からない」と思うのではなかろうか。

 

 さて、イザヤ書53章1−6節にはこうある。

〈わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられた。彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。〉

 

 ここには救い主メシアとしてのイエス・キリストの出現が預言されている。人の悲しみを知り、痛みを負い、悩みを担う人としてのメシアである。イエスに会えば、人はどのような悲しみの中にあっても救われる。あたかも眠る子を起こすように、「あなたに言う。起きなさい」と呼びかけるイエスには圧倒的な力強さがある。

 こうした奇跡を前にしたとき、私たちは「本当にそんなことが・・・」と思う。そして科学的な根拠を求め、仮死状態であったのではないかと推測する。

仮にそうだとしたらイエスの力は半減するのだろうか。この母親の悲嘆は、仮死であれ真の死であれ変わらないはずだ。仮死は生物的な死ではないが、このときの若者には母親の愛情を受け止めることができない。そこに母親の深い悲しみがあった。

私たちも、こうした状況を迎えなければならないことがある。死別でなくとも、通じ合えない関係に直面することがある。それは日常における死といえる。

そのようなとき、人は生き返らなければならない。若者が生き返って物を言い始めたように、主によって物言わぬ死を克服し、再び物を言う人として立たなければならない。

 

ここには3つの救いが示されている。

@ イエス・キリストは死者の中から人間を立ち上がらせる命の救い主であり、その呼びかけを聞こう。

A 愛する人に再会できるという約束が与えられ、断ち切られた家族の絆をつなぐ希望がもたらされる。

B イエス・キリストは私たちの悲しみを心にかけてくださり、私たちを喜び悲しみを分かち合う群れとしてくださるのだ。「ローマの信徒への手紙」にも〈喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。〉(1215節)とある。

 

このように、もはや泣かなくてよいようにしていただけるのであり、希望をもって歩むことができるようにされているのだ。私たちは、天に召された方々を神の前に覚えるとともに、このようにされていることを感謝し、祈るのである。

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これは説教の内容を要約したものです。本来、牧師の説教は語られることに大きな意味があり、文章化するとニュアンスが伝わりにくくなります。この内容をさらに深くお知りになりたい方は教会へお越しください。             (文責:後藤)


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