聖書のお話

「主の栄光に照らされる」【2013 クリスマス】

クリスマスですね。皆さんはどのようにお祝いされますか?

1215日の説教は、「主の栄光に照らされる」という題でした。

以下は、礼拝に出席した私のメモをもとに牧師の話をまとめたものです。口話を文章化したものなのでニュアンスに違いがあることをご承知ください。(文責G)

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クリスマスは誰のためにあるのでしょうか。人間のためであると、客観的に言うのではなく、自分のためである、と分からなければ本当の意味でのクリスマスは来ていないのです。もう一つ、私の救い、人間の救いだけではない大きな意味があります。

ルカによる福音書2章にイエスの誕生が書かれています。8節〜20節には、「野宿をしながら羊の群れの番をしていた羊飼いたちに天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので彼らは非常に恐れた」とあります。

羊飼いは当時、卑しい職業とされていただけでなく、羊の番をするので安息日を守ることも儀式を守ることもできませんでした。学問もなかったでしょうし、地位や名誉にも遠く、人から顧みられることのない人々であったと言えるでしょう。さらに、神から顧みられることがないと自ら思っていた人々だったのです。このような、貧しく低く孤独な人々が最初に救いを知らされたということにクリスマスの意味があるのです。福音は、もっとも必要な人にもたらされたのです。

この出来事は、徹頭徹尾、神の側からもたらされました。人間の救いは、神が人間を放っておけないと思われたから行われたのです。人間は神から離れ、勝手な振る舞いをし、そのことを深刻に考えないのですが、その罪の重さを知る神が、神の必然において手を差し伸べたのです。

羊飼いたちが非常に恐れた、という主の栄光とはどういうことでしょうか。単なる光ではない。出エジプト記33章には「主の栄光」という一節があります。モーセが「あなたの栄光をお示しください」と言う場面です。この個所は神の栄光の意味をよく示しています。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、さらに生きていることはできないからである」とあります。羊飼いが恐れたように、誰も神を見ることはできないのです。詩編19には「天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す」とあり、天は神の栄光を物語るものです。神は今も生きて世界を支配しているのですが、その神の栄光が分からないとしたら、私たちは、それほど暗闇の中にいるのです。

羊飼いが神の栄光に照らされたという不思議な経験は、神は生きておられるということ、そしてあなたは見捨てられていない、ということのしるしでした。しかも、それを目で見、体験したのです。では、なぜこれほどはっきりとご自身を示されたのでしょうか。それは神が人間を放っておけなかったからです。

私たちは、自分の思うようにならないと、神は見捨てたのかと思うのですが、神は人間を、疑う余地なく、愛しておられるのです。このことを示したのがクリスマスです。

神の栄光に照らされるという不思議な体験をした羊飼いたちは、その後どうしたでしょうか。ベツレヘムへ行き、乳呑児を探し当て、人々に知らせました。そして、神をあがめ、賛美しながら自分たちの生活の場へ帰って行くのです。

福音の証人として歩んで行った彼らの歩みは、私たちの歩みを指し示すものです。福音を先に知る者とされた恵みを私たちもまた語り伝えていくのです。

ドイツの神学者で牧師のブルームハルトは、「大部分の信者は救いを自分たちだけに関係することしか望んでいない。世界全体、被造物全体が何を望んでいるかを考えない。自分が救われることだけを願う」と言いました。

19世紀〜20世紀初めに生きたブルームハルトの言葉です。今、私たちはさらにはっきりと人間だけではなく、全世界、全宇宙、すべての被造物が救いを求めていることを知らなければなりません。被造物全体がうめきつつ神の栄光に与れるその日を待ち望んでいるからです。

羊飼いたちが福音を語り伝えた歩みは、現在全宇宙が神の栄光を現されるその姿を取り戻すことも含めて、私たちの歩みを押し出すものであります。

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以上が15日の説教でした。みなさんへ、メリークリスマス! の祝福を贈ります。

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【待降節】
アドヴェント・クランツ教会の暦では、今年は1127日から待降節(アドヴェント)に入ります。クリスマス前の4番目の日曜日から、アドヴェント・クランツのろうそくに1本ずつ灯をともし、主イエスの第一の来臨であるクリスマスを迎える準備をするとともに、第二の来臨である再臨にも心を向けます。
 


【小児への説教】宇都宮松原教会では、礼拝の中小児説教を行います。

■待降節の第一日、1127日はクリスマスのお話しでした。
「ルカによる福音書:1章2638節」
イエス様を産んだマリアは神様から赤ちゃんをいただきました。そのことを天使から聞いて、マリアはとても驚きました。結婚もしていないのですから。そのとき天使はマリアの親類エリザベトのことを話しました。「エリザベトは年をとっているが男の子を身ごもっている、神にできないことは何一つない」と言ったのです。その子は、マリアの子イエス様が神様のご用をするときに大切な役割をする先駆者となるのです。年を取り子どもを産めないはずなのに、神様のご計画により身ごもったのです。マリアの子も同じです。
マリアはそれを知り、「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と不思議なことをそのまま受け止めました。
さて、イエス様を宿すのはマリアだけではありません。私たちも自分の体にイエス様をいただくのです。新しい人になるということなのです。私たちは心の中に、魂の中に、イエス様をいただくのです。イエス様と一緒に生きていく、その恵みをいただくことができるようにされていく、そのことを私たちはアドヴェントに準備していくのです。
 


■待降節アドヴェントの第2週、12月4日の小児説教から
「ルカによる福音書」第1章39−45節
先週のお話の続きです。
子どもができずに辛い思いをしていたエリサベトに赤ちゃんが与えられました。もう6カ月になっています。マリアも神様から赤ちゃんを与えられました。マリアはエリサベトおばさんを訪ねることにしました。
エリサベトおばさんとザカリアおじさんに会い、「おめでとう」と言おうとしたのです。ところが、マリアは先に「おめでとう」と言われたのです。どうしてマリアのお腹に赤ちゃんがいることを二人はわかったのでしょうか。
それは、エリサベトのお腹にいる赤ちゃんが、マリアの声を聞いたときに踊ったからなのです。エリサベトのお腹にいたヨハネは、マリアのお腹の中にいるイエス様が分かったのです。 ふしぎですね。まだ、生まれていないのに、お腹の中にいるイエス様を見て喜んだのです。 赤ちゃんのヨハネは、まだ、生まれてはいませんが、イエス様に出会った最初の人になりました。
先週、イエス様はマリアのお腹の中だけに与えられるのではない、と話しました。私たちの中にもイエス様が与えられるのです。 それは、見ればわかるのです。あの人の中にイエス様がいる、私たちの中にイエス様がいてくださる。嬉しいね、とたがいに喜び合えるのです。イエス様が私たちの中に生まれてくださる準備をする、それがアドヴェントです。



■待降節アドヴェントの第3週、12月11日の小児説教から
ルカによる福音書2章1−7節
イエス様はベツレヘムの馬小屋に生まれました。どうして馬小屋だったのでしょうか。
そのころ、ちょうど人口を調査しなさいという命令が出されたのです。ローマの国に支配されていたので、ローマ皇帝のいうことはきかなければなりません。しかも、お父さんの本籍のある所で登録をするのです。お父さんのヨセフはベツレヘムが本籍です。マリアのお腹は大きくなっていましたから、ベツレヘムまでゆっくり行きました。ベツレヘムに着くと、宿屋はいっぱいで泊まるところがみつかりません。ヨセフはあまりお金を持っていなかったので、なおさらです。それでも、やっと馬小屋を借りることができました。
マリアは馬小屋の片隅を借りて、イエス様を産んだのです。
今、もしあなたの家に、イエス様が産まれると分かっていたら、泊めてくださいと言われたら、どうしますか? 神様の子と分かっていたら誰でも泊めます。イエス様は神様の子と分からなかったのです。神様の子と分かっていたら、きれいなベッドにきれいな産着を着せて寝かすでしょう。でも神様の子と分からなかったのです。だから粗末な産着を着て馬小屋で、飼い葉桶に寝かされたのです。

イエス様は誰のために来られたのでしょう。私たちのために来られたのです。でもそのとき誰もイエス様をお迎えしませんでした。
「自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1:11)とあるとおりでした。それは、あのときのベツレヘムの人たちだけではなく、今のわたしたちの心も、同じなのです。わたしたちのために来られたイエス様なのに、お迎えする心をもつ人はどれだけいるでしょうか。アドヴェントの礼拝の中で、わたしたちの心にイエス様をお迎えする準備をしていきましょう。


■12月18日 アドヴェント第4週 
「ルカによる福音書2章8―14節」

ナザレには泊るところがなかった、と先週お話ししましたね。神様の子イエス様がお生まれになる時なのに、ふつうの赤ちゃんが寝るような所さえありませんでした。それで馬小屋に寝かされたのです。それは、人間の心に神様の子を迎え入れる場所がなかったということなのです。
クリスマスを迎える私たちの心はどうですか。イエス様を迎える場所はあるでしょうか。クリスマスプレゼントやご馳走のことでいっぱいだったら、あるいは、仕事や学校のことなどでいっぱいだったら、イエス様を迎える場所はないかもしれません。イエス様がお生まれになったとき宿屋に場所がなかったように、です。
 さあ、天使たちは考えました。こんなにも素晴らしいことがあったのに、それを誰に伝えようか、と天から見渡しましたが、ベツレヘムの町には知らせるべき人が見当たりませんでした。広くあたりを眺めると、町の外にたき火を囲んでいる人たちが見えました。それは羊飼いたちでした。夜も羊を守って、オオカミが来ないように、起きて番をしていたのです。羊飼いたちはその仕事が大好きでしたが、寂しい思いもしていました。それは、仕事のために礼拝に行くこともできず、そのために律法も分からず、貧しい生活をしていたからです。ですから、神様から見捨てられたと思っていました。
そのとき天使が降りてきたのです。明るい光が羊飼いたちを包みました。驚く羊飼いたちに天使はこう言いました。「全世界の救い主がお生まれになった。救い主はボロ布にくるまれて馬小屋に寝かされている。それがしるしだ」
本当に神様の子なら、美しい着物に包まれ、きれいな部屋に寝かされることができたでしょう。そのような金持ちの家なら、羊飼いたちは行っても、会うことはできなかったでしょう。馬小屋だから羊飼いたちはイエス様に会うことができたのです。誰にも相手にされない羊飼いのことを神様は見捨ててはいませんでした。
イエス様がきてくださった。ここに、すべての人に対する神さまの大きな愛が示されたのです。

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